芦屋鋳物師
芦屋釜のあゆみ
芦屋鋳物師
芦屋釜のあゆみ
芦屋釜の復興
芦屋釜
の特徴
History and evaluation of Ashiyagama
芦屋釜の一般的な特徴を見ていきましょう。
1.形は、「真形」とよばれる形状です。
その特徴を部分的に記すと、
①口造りは繰口(口の立ち上り部分が湾曲した形)。
②鐶付は原則として鬼面。鬼面は竜首を思わせるような形状で、厳しい表情です。時代を経るにつれ、獅子面や亀など鬼面以外のものも現れます。
③胴部に羽をめぐらします。羽は風炉に懸けるための部分です。古芦屋の多くは長年の使用で底が傷み別の底に入れ替えられていますが、その補修の際、羽を欠き落としたものもみられます。
なお、底の補修の際、別に造った一回り小さい底を釜の内側から接着したものがあり、その形状から「尾垂釜」と雅称されます。
2.地肌は滑らかで、鯰の肌に似るので鯰肌とよばれます。
3.胴部に文様を表します。風景、動植物、幾何学文など様々な文様があります。また、霰を地文とするものもあります。
ごく稀に、寄進先や寄進年、作者名等を記した作品もみられます。
4.鋳型の中子(中型)は挽き中子法という技法で造ります。
このため、釜の内部に細かい線状の挽き目がみられるものがあります。挽き中子法は、芦屋鋳物師に伝わったとされる技法です。
芦屋釜の製作が途絶えておよそ400年。この現代に、再び芦屋での釜造りが始まっています。
その契機は、竹下内閣において平成元年に交付された「ふるさと創生資金」です。住民から使途を募った結果、芦屋釜を現代に復興させたいとの声が上がります。しかし、芦屋鋳物師は途絶えて久しく、製作に関する道具や記録も全く伝わっていません。芦屋町では、思案の末、芦屋釜を範とする作風で名工と謳われ、国指定重要無形文化財「茶の湯釜」保持者(いわゆる人間国宝)であった故角谷一圭氏に、茶の湯釜製作の技術指導をお願いしました。角谷氏は芦屋釜復興の趣旨に賛同され、弟子の三浦一孝氏を指導者として3ケ年派遣していただくこととなりました。その技術指導を受ける人物として、鋳金作家ととして活躍されていた遠藤喜代志氏を迎えました。こうして、平成7年5月、芦屋釜復興事業がスタートしました。
Ashiyaimoji TAKAHIRO YATSUKI
Ashiyaimoji TAKAHIRO YATSUKI
角谷工房からの3ヵ年の技術習得期間を経て、全国に残る古芦屋(室町時代を中心に造られた古作の芦屋釜)の調査を進め、その技術復元を試みました。
「調査・研究」と「復元製作」の両輪で芦屋釜の技術解明を進めたことは、芦屋釜の里の大きな特徴です。当時、芦屋釜の里の研究員であった西村強三氏、工房の遠藤氏を中心に、古芦屋の製作技術を紐解いていきました。
現代に復興した技術が再び途絶えないよう、後進に伝えていくことが肝要です。一人前の鋳物師になるには20年近い修業が必要とも言われますが、芦屋町では16年間の期間を設定し、養成計画を策定しています。平成9年、八木孝弘を養成員として採用、また平成17年には、遠藤氏の独立にともない樋口陽介を採用しました。また、研究分野も平成13年に学芸員の新郷英弘が引き継ぎました。
現代では不可能といわれる芦屋釜の復元。芦屋釜研究のさらなる深化と、復元技術の向上に邁進し、近年では成功率は低いながらも往時に極めて近い作品ができます。
平成25年4月、16年間の養成期間を終え八木孝弘が独立しました。
芦屋釜の復元に
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江戸時代初期頃、芦屋釜の鋳造は途絶え、その製作 技術は失われました。以後、芦屋釜の復元は不可能と いわれてきました。400年の時を経て、再び芦屋で 芦屋釜復興事業が始まり、古芦屋の調査・研究を重ねる 中で、復元のための3つの要素が見えてきました。
【和銃(わずく)】
1つ目は、釜の素材である鉄に「和銑(わずく)」を用いる ことです。和銑とは、砂鉄を木炭で製錬し、取り出した 鉄のことです。江戸時代以前は、輸入鉄などの特殊な 例を除き、和銑を用いて釜を造っていました。なお、 近代以降の鉄鉱石をコークスで製錬してできた鉄を 洋銃とよんでいます。和銑の特徴は、洋銃に比べて 極めてさびにくく、長年の使用にも耐えます。そのため、 茶の湯釜には適した素材ですが、芦屋釜復元にあたり、 和銑での鋳造は困難を極めました。最大の問題点は、 その硬さゆえに「割れ」が生じやすいことです。洋銑に 比べ、鋳込み後の収縮が強いためです。この和銑鋳造の 克服には長年かかりましたが、ひたすら注湯温度等の 詳細なデータを積み重ね、また鋳型に工夫を加える ことで、ようやく形になるようになりました。
【挽き中子】
2つ目は、釜の中子(中型)を「挽き中子」にすると いうことです。芦屋鋳物師活動期の製作に関する文書等は全く残っていません。ところが、江戸時代中期、芦屋鋳物師廃絶後に記された筑前国の地誌『筑前国続 風土記』土産考には、「京江戸の釜匠も芦屋流に伝ふる 引中心と云精巧の法を知らす」と記されています。すなわち、「引中心(=挽き中子)」が芦屋鋳物師に伝わった技法であるというのです。この記述を裏付ける痕跡が、細い同心円状の筋となって芦屋釜の口裏に残っています。挽板を回転させて中子を作る挽き中子法は、現在も梵鐘などに使われる技法ですが、芦屋鋳物師はそれを釜造りの技法に取り入れたと考えられます。それはおそらく、均一な厚みの鋳型造りを目指したためだと考えられます。厚みが不均等だと、割れが生じやすいためです。なお、現代の釜師の多くは、外型に土を込めて抜き取り、それを厚みの分だけ削って金属が流れ込む隙間をつくる「削り中子法」が主です。
【薄作】
3つ目は、釜を「薄作」で造ることです。芦屋釜の調査を進める中で驚いたのは、総じて釜の胴部の厚みが薄いことです。すなわち、持ち上げると軽いのです。
特に薄いものでは厚みが2ミリ程度しかなく、通常の釜造りからすれば極薄です。この厚みで製品を仕上げるには、極めて正確な鋳型造りが要求されます。しかも、割れやすい和銑で鋳造しなければならず、その難易度の高さは相当なものです。現代では、薄作の釜でも3ミリ程度ですが、1ミリ厚きが違えば、炉釜で1キロ程度重きが変わります。薄く軽い釜造りを目指す。このことも、復元で大切な要素です。
芦屋釜の復元にはこれら3要素の克服が必要でした。十数年にわたり製作実験を繰り返し、往時に近い作品もできていますが、それでも成功率は3割程度です。
芦屋釜の復興
芦屋釜
その歴史と評価
History and evaluation of Ashiyagama
芦屋釜は、南北朝時代頃(14世紀半ば頃)から 筑前国芦屋津金屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜 付近)で活動した鋳物師達によって造られた鋳鉄製の茶の湯釜です。「真形」とよばれる端整な形と、胴部に表される優美な文様は京の貴人達に好まれ、垂涎の的となりました。その需要は15世紀後半にピークを迎 え、時の将軍足利義政にも多くの芦屋釜が献納された記録が残っています。また、室町時代の公卿であり学者の一条兼良作と伝わる『尺素往来』には、「鐘子 (釜) は芦屋」と記されています。書簡の形式をとりながら 一般教養を伝える「往来物」は当時の教科書といえるのであり、「釜といえば芦屋」という認識が当時の 一般教養になっていたようです。
16世紀になると、芦屋鋳物師の庇護者であった大内氏の滅亡や、他産地の釜の台頭などが重なり、芦屋釜の需要は次第に衰退したようです。その製作は江戸時代初期頃に途絶えますが、現代の茶席においても芦屋釜は主役を務める存在であり、大変珍重されています。
また、その芸術性、技術力に対する評価は今なお高く、 国指定重要文化財の茶の湯釜9点の内、8点までを芦屋釜が占めています。